言語機能が快復すれば、その他の経過は順調だったので、色んなことが一気に好転していく。こうなると退院後の未来に目が向きはじめた。
既に代表取締役社長の辞任届は提出済みで、受理されている。退院後はフリーターともいえない無職のオヤジ。53歳の春は、「空」からのスタートになる。
2月22日(火)会話機能が回復
単語だけでなく、会話もできるようになった。Lineも普通に打てた。あとできるようになったのが読書。考えながら読むのは脳に負担がかかり、5分も続けて読めなかったけど、この頃になると普通に読めた。
自分でも快復スピードに驚くほどで、経過を見守っていた担当医や理学療法士の先生方も驚いていた。転院先探しから急転直下、退院日の目標設定へと会話が変化した。
もともと再術後の外傷的な快復は順調だったから一気に好転した。気が早って、退院後に祝杯をあげる用に赤ワインをアマゾンでポチった。
2月23日(水)手術後初めてのコンビニ

時を同じくして、病室フロアとリハビリセンター以外の外出禁止処置が解除された。といっても看護師の付き添いのもと車椅子でなら1階(コンビニ)に行ってもよいという条件付き。
忙しく働いている看護師さんの手を煩わすのは気が引けたので、よほどのことがないと付き添いは頼めない。
そんな状況下、「今日は看護師が4人を引率するから、あなたもどうぞ」とお誘い頂いた。車椅子3台と歩きの患者1人が、外来患者がいる1階フロアを横切るので、まるで大名行列のようで気恥ずかしかった。
それでもコンビニに行きたいという気持ちが勝った。当たり前の日常を取り戻す第一歩を踏み出すことができた。そして夕方には、体に繋がれていた最後の点滴も外れて心身ともにすっきりした。
2月24日(木)退院日が仮決定

遂に退院の目途が立った。明日の検査(上写真/SPECTという血流量の状態を診る検査)の結果が良ければという条件付きではあるが、来週の前半に退院できる見込みになった。
退院の話をきいて直ぐにニット帽をネットで発注した。髪の毛を剃って手術したので、30㎝位ぱっくりと川のように空いた髪の毛の谷間を見えないようにするためだ。
また、傷口に物が当たっても痛いので、ヘルメット替わりでもある。ニット帽は毛が生えそろうまで、相棒になるだろう。
2月25日(金)日記を再開
この日から闘病生活を綴った日記を再開した。いま振り返って読んでみると、いつも通りの文字で文脈もいつもと変わることなく書けているので、脳の状態が普通の状態に戻っていたのだろう。
そこにはこの日のSPECT検査の結果が良好で、退院日が2月28日に決まったと記されていた。
何度も繰り返した虚血発作、1度目の手術の経過が悪く、脳に血液が溜まって危険な状態になったこと、休日に行われた2度目の緊急手術、そしてその後の言語機能障碍など多くの困難に向き合った。
自分では為す術がない困難も、家族やお医者さん、看護師さん、理学療法士さん等に支えて頂いて何とか乗り越えようとしている。
こうして、社会生活に戻れるということは、まだ社会に対してやり残した「何か」あるに違いない。この時は、退院後その「何か」を探す長い旅がはじまるとは気づきもしなかった。
2月26日(土)退院前最終検査結果は良好

昨日のSPECT検査を最後にすべての治療が終了した。直ぐに退院したかったが、週末は会計が休みなので、退院は2月28日の月曜日に決まった。
3月1日には経営サポーターの募集にエントリーしていた、産創館の面接試験が待っている。退院翌日に果たして行けるのか不安だった。体力づくりのため、休日の外来病棟を2時間かけて歩き回った。
2月27日(日)退院前日身内がコロナ感染
退院を翌日に控えたこの日、妻からLineが入った。行動を共にしていた長男家族がコロナで陽性になったので、迎えに行ける家族がいないということだった。
ここにきて、さらにコロナに苦しめられるとは残念。コロナがまん延し始めたあの頃の患者には共通することなので仕方ないと諦めた。
コロナによる2度の手術延期騒動、家族との面会謝絶、そして今回の退院日に身内が来れないという事実。それでも、まだ生きているので家族にはいつでも会える。
さあ、明日は退院だ。世話になった病室を磨き上げてお返ししよう。
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