もやもや病 闘病ブログ総集編 痺れがはじまってから退院するまで

闘病ブログ

こんにちは、リストランテ’tetsu’のもやもや病闘病ブログです。

2022年1月4日に突然発症したもやもや病が2度の手術を経て退院し、その後、新たな日常生活を送るようになるまでをブログに綴りました。今回はその総集編という形でダイジェストにしてまとめました。同じような病気に苦しむ方々の何らかの参考になれば幸いです。
また、病気は悪いことばかりではなく、人生を良い方向に軌道修正する絶好のタイミングでもあります。ポジティブな意味で捉え直して、新たなチャレンジをブログに綴っていきたいと思います。

1.虚血(きょけつ)発作のはじまり:1月4日

元旦は大雪に見舞われたものの4WDハイエースのパワーの見せ所だと逆にはしゃいでいました。2人の孫も庭に積もった雪で雪だるまづくりの初体験ができました。これからNose-Baseが家族の思い出づくりに一役担ってくれそうで、嬉しくおもいました。
しかし、そんな幸せは突然断ち切られました。発端は仕事始めの1月4日です。その前日の3日の日中には吹田市にある通勤用のマンションに戻りました。
事始めの1月4日、帰社時間の18時になり、いつものようにオフィスフロアの奥からエレベーターに向かう通路でみんなに「お疲れ様でした」と言おうとしたのですが、呂律(ろれつ)が回わらず、もういちど言い直しても結果は同じでした。そうこうしている間にエレベーターについたので、そのまま帰りました。家に帰ってからは普通に話せたので、久しぶりに会社に行って疲れたのかなと思い早めにベッドにはいりました。

1月5日(水曜日):入院

目覚めると体もすっきりしていて気分も良かったので、昨日のことはすっかり忘れていました。そして、いつも通りの身支度をして社有車で出社しました。
昨日、手が痺れだした15時が近づくとまたも、左手が痺れだしました。そして今日はさらに口元の左側も痺れだし、口元の感覚がなくなりました。ちょうど歯医者さんで麻酔を打たれたときのような感じです。立ち上がろうとしても左足に力が入りません。右手でデスクを押し下げてやっとの思いで体を起こしても、一歩も前に進めません。症状はどんどん悪化していきます。体全体に広がってこのまま死んでしまうのでははないかと思いました。

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ネットを開いて脳神経外科を検索し、タクシーで江坂のクリニックに向かいました。到着10分後にはMRIの中にいました。先生は開口一番、脳梗塞は現時点では起こっていませんと告げられました。しかし脳の大動脈のうちの1本が異常に細くなっていて、ほぼ血液が流れていない状態になっている。昨日から起こっている痺れや足の脱力は虚血発作が頻発しているために起こっている。

脳梗塞は虚血発作の延長線上で起こるものなので、いつ、脳梗塞に発展し重篤な結果を招いてもおかしくない状態だと続けました。さらに今すぐ紹介状を書いて地域の急性期病院に入院の受け入れを要請するからタクシーに乗って行くようにと指示されました。
受け入れ先の医師から、はじめの虚血発作から48時間が一番危険なので、2~3日は急性期病室で投薬と経過観察をして、合わせて手術に向けた検査を行うとの説明を受けました。4日の発作から既に28時間が経過していました。5日の帰社前に起こった発作は最初の発作から24時間後だったので、この時、脳梗塞まで進行しなかったのは奇跡的だったとも言えます。

 

2.病室で迎える初めての朝:1月6日

ふと窓の外を見ると息子(長男)家族が住むマンションが遠くに見えました。昨日は夜中に入院したので気が付きませんでした。ほんの3日前までNose-Baseで一緒に食事を楽しんだり雪だるまを作ったりしていたので別世界に来たことを実感しました。
ただぼくの心は平静でした。昨夜妻にノートパソコンを持ってきてもらっておいたので、仕事のメールを確認したり、もやもや病のことをググったりして過ごしました。懸念されて脳梗塞の発症も、昨夜から服用している5種類の薬の効果もあり、兆候すらありませんでした。急性期患者の救急搬送が重なったようで、夕方には一般病棟に移ることになりました。
この日、もっとも時間を費やして考えたことは、仕事を辞めるか否かということでした。検査から手術、そしてリハビリまで含めると2~3か月かかる見込みで、後遺症や再発の可能性もあることから、元通りに仕事ができるのかも分からなかったからです。
治療面では、血液をサラサラにする薬で細くなった動脈の血流を促進したり、毛細血管からの供給を促進するようです。あと血圧を下げたり、胃を薬から保護したりと色んな効能の薬を飲みました。また点滴もあったので脱水症状や血中の酸素濃度も改善し発作も治まりました。

1月7日(木曜日)

検査後、主要な検査はすべて終えたので明日、一時退院して手術日前日まで家で過ごして、また病院に来てくださいとのことだった。その間に通院して診察と手術の手続きを説明するとのことでした。また、セカンドオピニオンを希望するのなら紹介状を書くので、この間に受診してくださいとの言葉もありました。
手術の実施は最短でも2月前半になるとのことでした。虚血発作が頻発していたものの薬でそれを抑え込めているので、1か月程度なら問題ないとの判断のようですが、ぼくにとっては爆弾を抱えたまま、手術を待つ形になるので、もう少し早くできないのかと求めたものの、手術に関しては既に予定がギッシリと詰まっていて、手術室も人員もどうすることもできないとのことでした。
ネット情報によるとセカンドオピニオンを取った方が良いという意見が多くそれに感化されつつあったので、その間に別の病院でも診てもらおう考えました。家の近所にある国立循環器病研究センターという病院にはもやもや病専門外来があり、症例数も関西ではトップクラスで検査設備面でも群を抜いていたので、この病院で診てもらって、本当に手術が必要なのか確認したいと思いはじめていました。

3.取締役辞任を決意

1月8日に一時退院しました。東京から次男も来て長男の家で一時退院祝いの食事会を開いてくれました。元旦にあったところでしたが、また違った心境になりました。手術次第で意識や機能に障害が残る可能性もあるので元気な状態で集まれる最後の会になるかもしれません。その後、能勢の家に移動して、薪ストーブの炎を眺めながら、取締役を辞任することを決意しました。

4.セカンドオピニオン

昨夜は江坂のマンションで24才の娘も福岡から合流し妻と3人で食事をして就寝しました。先週末に大阪で暮らす長男と東京の次男と食事をしたので、これで手術前にみんなと会うことができました。遠方で暮らす子供たちに心配をかけたくないという思いの方が勝るものの、こういったときに集まってくれるのは嬉しいものです。
1月12日は8日まで入院していた病院での外来診察日です。患者のぼくと妻、それに長男と娘も加わり団体受診です。コロナ禍なので入室できないかと思いましたが、そこは問題ないということで、すんなり入室しました。先生からMRIやカテーテルの画像や結果をもとに病状と今後の治療方針の説明がありました。子供達ももう大人なので、それぞれがもやもや病のことをネットで検索してきたようで、自ら質問していました。
ぼくからはセカンドオピニオンをとりたいので、紹介状を書いて頂くようお願いしました。若干、気まずい雰囲気になりましたが、最近はそういったことも多いようで、当然の権利なので、納得するまで調べたうえで手術を受けられた方が良いと先生も同意して頂きました。

5.上席役員に辞任を報告

1月17日、江坂で起床して阪神大震災の追悼番組を見ながら黙とうを捧げて、妻の運転で会社に出勤しました。朝の幹部会が終わったその足で、上席役員の部屋の扉をノックしました。長期間お休みを頂いたので病状の報告と体調不良による辞意を伝えました。普段は厳しい上席役員から思いがけず優しい言葉をかけて頂きぐっときました。まずは治療に専念して、その後の体調次第で仕事はどうするか考えたら良いという趣旨の言葉を頂き、辞表はその役員預かりとなり即日の辞任とはなりませんでした。
しかし私の処遇が決まらないと取締役選任の手続きが進まないため、辞任に備えて対応するよう、管理本部には伝えました。これで3月末をめどに代表取締役社長を退任し、4月以降、任期満了までは非常勤取締役として任を全うする路線が敷かれました。

6.再び緊急入院

虚血発作から2日目に緊急入院して薬を処方してもらってから、発作がぱったりと止んだので薬を飲んでいれば短期的には問題ないのだろうと高を括っていました。その幻想が打ち砕かれました。
1月20日、出社後、特に体調に変化は感じていませんでした。しかし席について1時間半ほどっ経った9時頃に突然、強烈な虚血発作が襲いかかってきました。明らかに過去のものとは次元が違う左手の痺れから始まり、足の痺れ、次に口元が硬直し痺れだした、そしてはじめて左上半身までも感覚が遠のいていく、死を覚悟した、その状態が30分は続いたと思います。机に顔をうずめて耐えました、周りの席の社員は営業に出払ってひとりもいません。混とんとする意識の中で、このまま逝ってしまいたいと思いました。
手術をしたところで元通りの生活も仕事もできないだろうし、今が人生の絶頂期だとしたら、この先、長い下り坂を降りるだけだろう。そうだ助けを求めるのはやめよう、ここで人生を終えられたら本望だと思いました。しかし、思いとは裏腹に発作は治まりました。その時、生かされた命なので、大切にしようと思い直し早退させてもらい国立循環器病研究センター(国循)に向かいました。
紹介状には診断書だけでなくMRIやカテーテル検査のデジタルデータもあるので、すぐにこれはもやもや病だと診断されました。昨日の発作の状況も踏まえて危険な状態なので、そのままNCU(脳の集中治療室)に入ることになりました。また、週明けの月曜日にはPETとSPECT検査も行った上で手術の詳細な方法を決めて実施することになりました。
セカンドオピニオン云々どころではなく、非常に危険な状態なので、家に帰すこともできないというレベル感でした。この時、診察して頂いた先生がそのまま主治医として手術の執刀も担当してもらうことになりました。もやもや病の専門医なので、説明も分かり易く安心感を覚えました。

7.院内でも虚血発作、再発

再入院3日目の1月23日15時半ごろに虚血発作が起こりました。国循では初めてで、25分間続きました。ナースコールで看護師さんに来てもらいました。前回の強烈な発作よりも、さらにパワーアップして襲いかかってきました。そんな中、驚いたことがありました、それは医師が直ぐにはきてくれないということです。看護師さんが院内専用電話で連絡してくれたのですが、日曜日だったからでしょうか、医師はそのまま様子を見るようにとのことでした。想像ではありますが、発作中に何か手当てができる訳では無いということでしょう、しばらくしてから来られてMRI検査を受けに連れていかれました。結果としては脳梗塞に発展することなく、何とか持ちこたえました。

8.手術までのカウントダウンはじまる

2月2日の手術まで1週間を切り、手術前の検査が佳境になってきました。足の付け根からカテーテルを通して血管の状況を撮影したり、エコーで内臓が手術に耐えられる状態か確認したり慌ただしく過ぎました。手術のリスクを聞いていると麻痺が残る可能性もあるので念のため遺書を書いておくことにしました。脳の病気で死亡する人は殆どいないそうですが、脳に障害が残って物事を判断できないようになると困るのでとりあえず書いておきました。
家族への最後の手紙なので、気の利いたことを書こうと思っても、文才がないので言葉が浮かびません。大したものはないのに遺産の分け方を書いても虚しさしかありません。病気になって初めて考えることや気がづくことも多くて自分に降りかかる出来事には無駄なことなど何もないのだとつくづく思いました。

9.まさかの手術延期、コロナ恐るべし

2月1日、手術前日の朝、担当医が巡回されてきて、いつもなら、体調についてふたことみこと質問されて終わりなのですが、今日は異なり、昨日は国循の手術予定がすべてキャンセルになったと告げられました。詳しくは聞けなかったのですが、どうも手術スタッフの中で複数人がコロナに感染し、出勤できなくなったため、手術が取りやめになったようです。今後のことは午後の会議で決まるとのことでした。

して、結論は最悪のものでした。ぼくの手術は無期限延期、そもそも手術自体が生死にかかわる状態のもの以外は中止するというものでした。つまり、次の手術日も分からないまま、虚血発作の頻発と向き合い、その待っている間に脳梗塞に至れば、はじめて手術台に乗せてもらえるということです。結論的には手術の無期限延期以外の選択肢はないのかも知れませんが、患者が置き去りにされているように思いました。

10.2度目の手術日時決定

手術延期から5日が経ち、ようやく手術日時が決まったと告げられました。2月10日9時スタートです。ようやく出口が少し見えましたが、手術実施に向け、前回の手術予定日前に行った手術前検査をもう一度同じように実施するということも告げられました。
実はぼくの腕は点滴を打つ場所を探すのにも看護師さんが苦労するほど、穴だらけになっていました。3日に1回、点滴の針を衛生上の問題から刺し替えるのですが、国循に来て20日弱、その前も別の病院に入院していて常に点滴はつけっ放しの状態で、検査ごとに動脈、静脈を問わずあちこちに針を刺すので、腕全体が黄ばんだような状態になっていました。

11.ようやく手術実施

前回は手術前日の19時半に担当医が来られて手術が中止になったと告げられました。コロナ禍は依然続いているので不安は絶えませんでしたが、案の定、2月8日19時過ぎに担当医が来られて、またも手術が延期されることになったと言われました。理由は執刀医のお子さんが通う保育園でコロナ感染者が出て、執刀医が濃厚接触者の濃厚接触者になって今日から出勤停止になったと言われました。
今回は、はいそうですか、とはいきません。ぼくの体はすでに悲鳴を上げていました。また入院もしていなくて、発作も起きていない方が先に手術を受けられたことも引き金となり、手術の延期は受け入れられないと拒否しました。そもそも濃厚接触者との濃厚接触で出勤停止にするという対応は医療崩壊を助長するだけで、国が法律で定めている訳でもないので、納得できませんでした。
担当医も一定の理解を示され、上長に相談してみるといって頂き退室されました。それから1時間ほどして戻ってこられて、打ち合わせた結果、別の医師に執刀してもらえることになったので、予定通り手術が実施できることになりましたと告げられました。他の患者さんに迷惑が掛からないのか、確認したところ、他の手術には影響はないとのことでしたので安堵しました。ぼくが救われても誰かに迷惑をかけては意味がないので、その点は念押ししました。

12.麻酔から覚めて新たな脳がスタート

https://mainichi.jp/articles/20190609/ddn/041/040/008000c

2月10日、ついに手術が行われました。「手術終わりましたよ、起きてください」といった大きな声で、呼び起されて目覚めました。あとから聞いたことですが、8時間に及ぶ手術でした。血をサラサラにする薬を前日まで服用していたため、出血が止まらず、なかなか頭蓋骨を元の状態に戻すことが出来なかったそうです。とはいえ、とりあえず無事に手術は終わったと告げられました。
この先は2月24日ぐらいまで、実はぼくの中で「記録」がありません。「記憶」についてはそれまで以上にあるのですが、毎日の出来事を記録していたメモ帳に書くことが出来なくなったからです。
術後2日目の朝は痛みが和らいできて気分も良くなってきました。しかし、15時ぐらいになるとにわかに体調に異変が生じました。言葉が出にくくなってきたのです。手術前に術後1週間程度は血流のバランスが変化することにより言語機能障害が出て話しづらくなったり、リハビリが必要になったりするケースもあると看護師さんから聞いていたのでそれがきたのだと思って、特に慌てることがありませんでした。
しかし、ぼくの場合その原因が異なっていたようです。緊急でCTをとって診断されたのは、脳内に大量の血液が溜まっていて、それが脳を圧迫して話づらくなっているとのことでした。このまま放置すると危険なので、緊急手術を行いますと告げられました。家族の同意も電話で済ませて、承諾書は後回しにするという慌ただしさです。

13.2度目の手術とその後の経過

2度目の手術日となった2月12日は土曜日ということもあり、お医者さん達は通常の出勤状況ではなかったはずです。麻酔医も手術予定が基本的にはない土曜日に在席されていたのかも分かりませんが、CTを撮影してから僅かな時間で緊急手術が決まったことだけは確かです。どれほど多くの方にご迷惑をおかけしたのか、想像もつきませんが、ぼくの手術は19時ごろにはじまりました。もう一度、頭部を開いて出血が止まらない箇所の止血をして元に戻すというものです。今回は血管をバイパスするといったことでははないので、約4時間で手術は終わりました。おそらく日付が変わろうとしていたと思われますが、手術後の記憶は殆どありませんでした。ただ手術中、とても幸福なところにいる夢を見ていて、戻りたくないと思っていたことろで起こされました。
手術後は1度目と同様の猛烈な痛みが襲ってきました。約24時間は全くと言っていいほど、痛み止めの効果がありませんでした。なので、痛み止めはいらないと伝えたいのですが、それもできなくなっていました。言語機能が完全に失われ、筆談すらできない状態に陥っていたのです。相手の話すことは理解できるのに、こちらから何らかの表現をしようとしても、どうやれば良いのか分からないのです。こういった経験をするまでは、話せないということは相手の言うことが頭で理解できていないのだと思い込んでいましたが、そうではなく、頭では理解していて返答したいことも分かっているのに、それを表現するすべが分からない場合もあるのだと、はじめて気づきました。

14.突然、言語機能が回復

http://www.jcvrf.jp/general/pdf_arekore/arekore_015.pdf

2月18日頃になると2度目の手術で出血が何とか止まり良かったという楽観ムードは消えてきていました。それよりも、言語機能が全く回復せず、自然治癒が難しいのではないかという声が、理学療法士チームから聞こえてくるようになりました。言語聴覚士の先生によると、2、3か月リハビリを専門に行っている病院に転院した方が良いとのことでした。
2月20日の深夜0時過ぎに目が覚めました。21時半にはいつも寝始めるので、この時間にいつもトイレで目覚めます。まだ点滴もしていて、水分を多めにとるように指導されていることもあるので、どうしてもトイレは近くなってしまいます。トイレを済ませてベッドに入る時、何時かなと思い時計を見た瞬間、あっ「とけいだ!」と突然、言えたのです。はっきりと単語を口にできたのは再術前以来はじめてのことです。すると多くの単語が言えるようになりました。「ボールペン」「コップ」「歯ブラシ」「ティッシュ(これは難しかったです)」「薬」「テーブル」・・・手当たり次第に身近にあるものを声にしました。

15.国循を退院する日が決定

2月22日になると単語だけでなく、会話もできるようになってきました。Lineも普通に会話になってきてました。あと新たにできるようになったのが、読書です。読み方を考えながら読むのは脳に負担がかかり、5分も持たなかったのですが、この頃になると、1時間でも普通に読書が出来るようになりました。
このように回復スピードにはぼく自身が驚くほどで、経過を見守って頂いていた担当医や理学療法士の先生方も驚かれるほどでした。転院先探しから急転直下、退院日の目標設定へと会話が変化していきました。もともと再術後の外傷的な回復は順調だったので、気が早って退院祝いの好きな赤ワインをアマゾンで発注しました。
2月24日には遂に退院の目途が経ちました。明日の検査(左写真SPECTという血流量の状態を診る検査)の結果が良ければという条件付きではありますが、2月28日に退院できる見込みとりました。

16.ひとりだけの退院

退院を明日に控えた2月27日、妻からLineがはいりました。行動を共にしていた長男家族でコロナ陽性者が出たので、自分も濃厚接触者になったので、明日の退院に迎えに行ける家族がいないというものでした。ここに来てもコロナに苦しめられるのは、コロナがまん延し始めた近年の患者さんに共通するものでしょう。
ぼくも2度に渡る手術の延期騒動、家族との面会謝絶、そして今回の退院日に身内が来れないという結果です。ぼくはまだ生きているので、この先、いつでも家族と会えるので何の問題ありませんが、最期の時を迎えられたかたは本当にお気の毒です。ご家族もさぞお辛かったことだろうと実感しました。
ぼくは紆余曲折がありながらも、無事、退院日を迎えることができました。しかも後遺症が無い状態で出れることは、病状の経過からすると奇跡的にも思えます。多くの方に支えて頂いたことに感謝しかありません。

3月1日(退院翌日)

福岡で働いている娘が、ぼくがひとりでいることを聞きつけ、急遽、大阪に来てくれました。どうやって仕事の調整をしたのか分かりませんが、素直に嬉しかったです。
※イラストは病室に飾る用にと娘が描いてくれたものです

 

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