➀仕事編『仕事・私生活・趣味、なんでも夢中になれるだけで儲けもん』

ひとと企業のサポーター
ワークライフバランスの大切さが声高に取り沙汰されて私生活が重視されたり、最近は揺り戻しで職場でのリアルなコニケーションが見直されたりしている。

どちらにしても、50代半ばのフリーランスオヤジにとっては特に関係はない。それでも、フリーになってから思うのは仕事と私生活を分けて考えても仕方ないということ。

仕事を辞めて、次の仕事を本格的にはじめるまでの1年間は、「ワーク0対ライフ100」だったこともあり、ワークがないことの辛さを痛感した。

今ではそのバランス云々よりも、夢中になれることがあればそれで満足できるようになった。

厳冬期の八ヶ岳で考えたこと

大晦日の八ヶ岳連峰の最高峰赤岳山頂付近の天気は大荒れ。登頂を諦めて、やっとの思いで赤岳鉱泉(山小屋)にたどり着いた。

まだ14時だというのに赤岳鉱泉の周りは暴風雪でどんよりとグレーがかっていた。それでも中に入ると温かいストーブが勢いよく焔をたぎらせていた。

さっきまでの暴風雪がまるで別世界だけど、山小屋の壁一枚隔てたころでは、今も荒れ狂う自然が存在する。今は暖かい図書室で、五木寛之氏の著書『不安の力』を読んでいる。

不安があることを肯定する内容。一生懸命生きてさえいれば、不安は付きものなので受け入れようと聞こえた。先ほどまで暴風雪の中て不安に怯えていたから、素直には受け入れがたいけれど。

それでも、命ある瞬間瞬間に何かに夢中になれていれば儲けものだと思う。「いま、これに夢中」と言えることがあるだけで人生はハッピー。不安が尽きない厳冬期登山も、楽しくて仕方ない。

無職が問題ではなく、夢中になれるものがないことが問題

50代半ばに差しかかり、大病を経て健康を取り戻したオヤジにとって、仕事がないということがどういうことなのか、振り返って考えてみたい。

夢中になれるものが仕事であろうと、私生活であろうと、はたまた趣味であろうと、残された時間を夢中になれることのために使うことが、生きる喜びだと思うようになった。

どれもポジティブである必要もない。転職するため、離婚するため、登山のリスクに怯えて安全対策に夢中といったことでも良い。相対的な時間が短く感じられるほど、人生の充実度は高まるように思う。

おかれた状況にネガティブにならざるを得なかった3年前に遡り、ほろ苦い思い出に変わるまでのプロセスを振り返ることで、夢中になることの意味について考えてみたい。

50代以降に立ちはだかる壁

50代に入ると仕事は役職定年、家族は独立、体力の低下で趣味もイマイチといったことになり、夢中になれることが減少していく。

ましてや大病を患い仕事を辞め、都会を離れ療養生活になれば、尚更夢中になることがなくなる。自分自身、もやもや病を患い、仕事を辞めてからの約3年間は、夢中になれることを探すことに費やした。

そんな暮らしの中で気づいたことが、夢中になれることは決してポジティブなことでなくても構わないということ。

辛くネガティブな状態にあって、その場は辛く苦しくても、時が経過すれば、それすらほろ苦くても貴重な経験に変わると実感した。

心に刻み込まれるような経験は人生に彩りを添えるものであり、ネガティブな経験があるからこそ、ポジティブな状態の幸福感が際立つということもある。

入院生活を経験すれば、普通に暮らせる喜びが実感できる。転職活動で苦渋をなめれば、仕事があることに感謝できる。健康を取り戻せば、先送りにしていた冬山登山にも、今しかないという思いで向き合える。

社会的なステータスを失った結果

上場企業の社長という肩書を病気を理由に投げ捨てるまでは良かった。しかし、その先のことは、無機質な病室で、後遺症の恐れがある状態では、考えることができなかった。

企業経営の中核を担い、それに見合う報酬や会社が借り上げてくれた高級マンション、社有車だけでなく、多くの社員や取引先が指示に反発することもなく働いてくれた。

会社の大株主(所有者)ではない雇われ社長であっても、その地位が様々な権限を与えてくれた。しかし、そんな権限はたった一枚の辞表で、あっけなく消え去った。

なくなってしまう前は、その重責が重荷に感じることもあったけど、失ってその役割の価値を思い知った。

採用面接で体験したこと

人を評価したり採用したりする側から、一転、社会から見定められる側になった。この現実を受け入れるのに1年以上かかった。

何か仕事を始めようと思い立っても、自営で事業をはじめる以外は、どこかの組織に所属する必要がある。その際、必ず採用面接や商談があり、そこで見定められる側に回ることになる。

面談相手は、現場を取り仕切る課長クラスの場合が多く、これまでは育成目線で接していた相手に吟味されることにった。

面接時間に遅れてやって来て、コチラの話を上の空で聞きながら、時折、ひび割れた携帯に目をやる。内心穏やかではいられないけど、やりたい仕事のためには我慢も必要だと言い聞かせた。

商談に際しても、社長であれば提案を受ける側に立つことが多く、あの手、この手で擦り寄ってくるような営業マンには厳しい態度で応対していた。

それが今では、揉み手とまではいかないまでも、相手の立場を忖度しながら、話を合わせている自分がいることを自覚せずには居られない。

仕事探しをやめない理由

50代半ばを過ぎてからの仕事探しは本当に苦しい。嫌な面接を受けるぐらいなら、もう働きたくないとさえ思った。一方で、ここで社会から退けば、無価値な人間に成り下がってしまう恐怖心もあった。

1年近く療養生活をしていた頃、前年の所得が高かったこともあり、その年の市府民税の納付金額が約400万円だった。年間の生活費と合わせて1年間で800万円ほど口座の残高が減った。

その現実を前に、手術時に死んでいれば、家族にもっと多くの遺産が残してやれたと悔しく思えた。無収入で口座の残高を切り崩しながら生きていくことの虚しさを痛感した。

定年まで勤め上げた訳でもないのに、家でブラブラしていると、社会に貢献するどころか、社会の負担になりかねないという切迫感も生じた。

だから、プライドがズタズタにされるような採用面接や商談であっても、堪える他なかった。面接は何度も何度も受けた。

退院日の翌日から受け始めた公的機関の経営アドバイザー的な求人は4社、古民家再生の仲介企業の顧問契約や田舎の不動産業者との連携交渉、他にも顧問紹介サイトや役員の派遣会社など1年間に10社以上の面接や商談をを重ねた。

紹介サイトと役員派遣会社は登録面談を済ませてから音信なし。顧問や連携話は進展したものの、事業性が展望できず、こちらから退いた。アドバイザー登録については全て登録は認められた。

とはいえ、仕事に繋がったアドバイザー登録は公的機関の2社だけだった。あとは登録しているだけで、何の仕事も回ってこない。

仕事に行き着いた公的機関の1社は、半常勤の契約にステップアップしたので、社長を辞めてから3年が経った今では、仕事の土台となっている。

最近では、経営サポートの仕事をしているという噂を聞きつけて、前々職の取引先等から経営支援の要請があり、3社の顧問をしていてる。

退職後3年間、紆余曲折がありながら、ようやくやりがいのある仕事と理想の仕事量に行き着くことが出来た。

この先、病気を機に雇われ社長を辞めて良かったと、心の底から言えるよう、充実した暮らしを続けていきたい。

仕事探しで重荷になった、見えない鎧

採用面接を受けることは普通のことなのに、社長を経験したがために、プライドともいえない余計な鎧をまとっている自分がいた。何の役にも立たない鎧は、一刻も早く捨て去ることだ。

たまたま大病を患い、普通よりも早くこの体験ができたことは、今となっては良かったと思う。

社長を辞めて収入は1/4に減ったものの暮らすには困らない。やりがいは今の方があると強がることもできる。

何より田舎暮らし&ときどき仕事というライフスタイルに良くも悪くも夢中になれている。病気がなければ、平穏ではあっても、生涯の記憶に残るような経験はできなかったかも知れない。

過ぎてしまえば、良いことであっても、辛いことであっても「夢中になって毎日を生きていた時間」ということに変わりはない。

遠い昔の幸福感を思い出したところで、今の幸福感が高まることはない。逆に辛い思い出があると、それと比較すれば、現状の方がまだマシだと思えることもある。

どちらにしても脳裏に焼き付くほど夢中になれることが多ければ多いほど、最期の時に楽しい人生だったと思える気がする。

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