1月18日(火)コロナのオミクロン株が猛威
5時50分、江坂のマンションのベッドから起き出して、軽い筋トレと朝食を済ませ7時過ぎに出社した。企業の多くは、コロナのオミクロン株が猛威を振るっていたのでリモートワークや出張禁止の処置がとられていた。
そんな中でも労働集約型のサービス業ではリアルでの業務が続いていた。幹部社員を集めて、現在の病状と今後の療養予定を説明した。不在中に主要な業務が滞ることがないよう、臨時的な役割分担も伝えた。辞任のことはインサイダー情報に抵触するので伏せておいた。
1月19日(水)病院への紹介状依頼
この日は仕事を休んで、入院していた病院に行き国立病院宛ての紹介状を依頼した。診察予約を取っていたものの、紹介状を受け取るまでに3時間以上かかった。病人は体力が衰えていて、薬も服用しているので、他の合併症にも罹りやすいというが、待合室に3時間以上放置することのリスクには無沈着だ。
院内感染を避けるために死に目にも合わせない徹底ぶりとのアンバランスが理解できない。飲食店のように順番が近づけば携帯でお知らせするといったスマートな対応はとれないものか、待合スペースを減らせるコストダウンでその程度のシステム投資費用は回収できるはずだ。
病院のお医者さんや看護師さんのホスピタリティは素晴らしいけれど、病院運営となるとそれとは対極の世界にあるように思えてならない。なにはともあれ紹介状をもらえたので、国立病院に電話してもやもや病専門外来の予約をとった。
1月20日(木)強烈な虚血発作
初めの虚血発作から2週間、発作は薬でコントロールできなかった。初めて虚血発作が起こってから入院して、薬を処方された後は発作がぱったりと止んだ。それで薬さえ飲んでいれば短期的には問題ないだろうと高を括っていた。その幻想が打ち砕かれた。

5時55分に起床していつものようにルーティーンをこなして出社、特に体調に変化は感じていなかった。しかし席について1時間半ほどっ経った9時に突然、強烈な虚血発作が襲いかかってきた。
明らかに過去のものとは次元が違う左手の痺れから始まり、足の痺れ、次に口元が硬直し痺れだした。そしてはじめて左上半身までも感覚が遠のいていく、死を覚悟した。
その状態が30分は続いた。机に顔をうずめて耐えた、周りの席の社員は営業に出払ってひとりもいなかった。混とんとする意識の中で、このまま逝ってしまいたいと思った。
手術をしたところで元通りの生活も仕事もできない。今が人生の絶頂期だとしたら、この先、長い下り坂を降りるだけ。そうだ助けを求めるのはやめよう、ここで人生を終えられたら本望だと思った。
しかし、思いとは裏腹に痺れは治まった。発作に襲われていたときに死の恐怖に狼狽していたら、呼吸が乱れ酸欠が加速し、逆に帰らぬひとになっていたのかも知れない。
人生は思うようにいかないものだ。11時ぐらいまで席で休んでいるうちに、せっかく生き延びたのだから病院に行こうと思いなおし、国立病院に電話して虚血発作が起こったので1日前倒しして診察してもらえないかと問い合わせてみた。
しかし、つれない返答がきた「いま通っている病院に行ってください」。国立病院でセカンドオピニオンを受けるために、手術前の検査をキャンセルしたのに、発作が起こったからまた診てくださいとは言い難い難い。そう説明しても取り合ってもらえなかった。
妻は福岡に一時的に帰ったので、ひとりだけの江坂のマンションに戻った。いつ発作が起こるか分からない怖さはあったものの、ケセラセラという気持ちもあった。発作が来て死ぬのも人生、無事に朝を迎えるのも人生、どちらも自然体で受け入れようと思いながら眠りについた。
1月21日(金)2度目の緊急入院
不安な一夜は無事に明けた。しかし、国立病院の診察は15時から、まだ油断はできない。薬を飲んでいても発作が起こる状態だから、今日の診察後そのまま入院になるかも知れない。そのため着替えや身の回りの衛生用品を持って電車で国立病院に向かった。
紹介状には診断書だけでなくMRIやカテーテル検査のデジタルデータもあったので、すぐにもやもや病だと診断された。昨日の発作の状況も踏まえて危険な状態なので、そのままNCU(脳の集中治療室)に入ることになった。
また、週明けの月曜日にはPETとSPECT検査も行った上で手術の方法を決めて実施することになった。セカンドオピニオン云々どころではなく、非常に危険な状態なので、家に帰すこともできないというレベル感だつた。
この時、診察して頂いた先生がそのまま主治医として手術の執刀も担当してもらうことになった。専門医ということもあり、説明も分かり易く安心感を覚えた。
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