職務経歴書

ひとと企業のサポーター

53歳でフリーランスになった職務経歴書

【経歴】
(株)ハークスレイ勤続11年(社長、営業本部長、マーケティング本部長、経営戦略室長)

(株)プライム・リンク勤続10年(社長、営業本部長、業態開発部長、SV、店長)
居酒屋個人経営11年
飲食業を中心としたフランチャイズチェーン本部を運営する企業に累計21年間お世話になり事業の発展に努めてまいりました。直営店の店長、スーパーバイザー、新規業態開発、商品開発、マーケティング、経営企画等の業務に従事しました。なかでもフランチャイズ加盟者との信頼関係は、退職した今でもわたしにとってこの上ない財産となっています。
【履歴】
立命館大学経営学部卒

兵庫県立大学経営大学院経営管理修士課程修了
大学は26歳、大学院は48歳の時に入学した遅咲きです。「今、ココ」だけに集中するタイプです。過去は変えることはできないけれど未来によって再定義できると思っています。なので、思い立ったら即行動がモットーです。京セラ創業者の稲盛和夫氏が塾長を務められていた盛和塾でも初めて役員になった37歳の時から3年間経営哲学を学ばせて頂きました。
【資格】
中小企業診断士、MBA、宅地建物取引士、調理師

ビジネスマン時代は何らかの資格試験の勉強をすることで、知識武装できたような気になっていました。特にその資格を使うあてはなかったのですがビジネス書を読むような感覚で、資格の参考書を手に取っていました。今となってはその資格が趣味ときどき仕事というライフスタイルを支える生きた資格となっています。
【情報の発信】
・銀行研修社発行『中小・小規模企業の企業の再生事例集』共著
本HPでFC加盟前又は立ち上げ前に抑えておくべきポイントを配信
投稿サイトNOTEへの配信

10年単位で訪れる仕事と気持ちの変化

20代:起業から、知的探求へ

20歳で鉄板焼き居酒屋を開業し、個人事業主として店舗経営をスタート。21歳で結婚、第1子誕生と慌ただしく20代前半は過ぎた。後半は27歳で第2子が誕生したことに加えて、経営を基礎から学ぶために、立命館大学経営学部に入学し、2子の父親と店舗経営者、そして大学生という暮らしを始めた。
経済的には店舗の経営が順調だったので、どちらかといえば余裕のある生活だった。時間的には7時に起床して、身支度をして大学に向かい、9時から2コマ(90分1コマ)の授業を受けて、午後0時半には店に向かった。13時頃から仕込みや店の掃除をして17時には開店。閉店するのは深夜2時、後片付けして家に戻るのが3時を過ぎ、それから妻と遅めの夕食をとり、4時には就寝するという生活だった。幸い、大学に正味通う日数は半年程度だったので、週末や学休期間に体力を回復させることができた。
大学の単位は、最初の3年間で取り終えたので、4回生時は興味のある講義だけを聴講生のような形で聞きに行く程度になったので、時間的な負担はそれほどなかったように記憶している。それよりも、大学での学びは、自らの知的好奇心を刺激し、同時期に宅地建物取引主任(現:宅地建物取引士)や簿記2級の資格試験にもチャレンジした。

30代:挫折から再起へ

30代序盤は、人生で最も有頂天になっていた時期だろう。この頃生まれた第3子は女の子。これまで男児2人続きだったので、3人目も男児だろうと思っていたところに女児誕生で家族は新たな賑わいに包まれた。
大学も卒業し学んだことを活かして、新たな店舗を出店するぞと意気揚々と事業計画を書き上げた。そして31歳の時に新店を開業した。それまで、10年以上に渡って、単月で赤字になったことはおろか、利益が60万円を下回ったことすらなかったのに、この新店は初月の赤字が100万円を超え、その後も多少の前後はあったものの年間で1,000万円を超える赤字を計上した。
開業費の約2,000万円の内、半分は自己資金、残り半分は金融機関からの借り入れで賄ったため、その元利返済も重くのしかかり、あっという間に経営危機に陥った。新店の開業1年後には閉店を意思決定し、店舗の売却やテナントの敷金返還等の交渉を行い、支出を最小限に抑えたものの、店舗がなくなり、負債だけが約1,500万円残る惨状となった。
この状態で、自営業者として再起することは不可能だったので、一旦、企業に就職し生活の糧を得ながら、いつかは再起してやるぞと思い直し、就職活動を始めた。ここに至る過程で、生きることに苦しさを感じたこともあったが、3人の子供たちの寝顔を見ていると、何とか生きようとする気持ちが上回り、再起にかける意志を奮い立たせることができた。
そして33歳で初めて就職したのが㈱プライム・リンクという会社だった。当時はベンチャー・リンクというフランチャイズチェーン展開をサポートするコンサルティング会社の子会社で、フランチャイズチェーン展開に向けた、業態パッケージの磨き上げや直営店の運営等の役割を担っている会社だった。入社前後に当時のナスダック市場に上場し、親会社のもとを離れて自立を始めたところだった。
プライム・リンクでの仕事は、はじめに店長候補として北陸にあった総合居酒屋の店舗研修を受けて、その後、福岡のその業態の店舗の立ち上げ店長として配属された。月の売上予算1,400万円に対して、実績が約700万円という大ゴケで目も当てられないような赤字を叩き出した。北陸では大人気の業態だったが、九州では全く知名度がなく、あとから思えば当たり前だった。しかし、当時はプライム・リンクの事務所は東京と大阪にしかなく、遠方から見ると店舗の怠慢で売れていないように映ったようだ。血相を変えて上長のマネージャーが飛んできたが、店はまともに運営出来ていて、これといった対策を指示する訳でもなく、認知されるまでは人件費のコントロールをしっかりするようにと告げて大阪に戻っていった。
とはいえ、待っていても認知は進まないので、近隣に多数あった法人の事務所を片っ端から回ってサービス券を手渡しまくった。その数、半年間で7万枚。全て従業員さんに1枚ずつ手渡しするということにこだわって、アルバイトと副店長と力を合わせて配りきった。その結果、翌年の12月には売上が1,400万円を突破し、利益予算も達成した。その後、店舗は売上予算をクリアし赤字を計上する月も無くなった。その結果が認められ、複数店舗の管理や11店舗運営していた同ブランドのマネージャーを担当するようになった。結局、このブランドには3年間携わった。チーム一丸となり、11店舗全店の黒字化を達成するために店長間で得意分野を活かすことができるよう役割分担を決め、様々な改善に取り組み全店黒字を実現した。
4年目には当時、鳥インフルエンザで瀕死状態にあった焼き鳥居酒屋の全国フランチャイズチェーン本部のブランドマネージャーを担当した。加盟店と直営店合わせて約180店舗を全国に展開していた。初期の鳥インフルエンザは未知のウイルスが鶏肉にどのような影響を与えるのか、消費者は疑心暗鬼になっていて、鶏肉そのものを食べないという選択肢をとっていた。そのため一旦は総合居酒屋への業態転換を図り、何とか売上を下げ止めることができた。
この翌年には米国を中心に狂牛病(BSE)が発生し、その後、日本にも広がりを見せた。プライム・リンクでは基幹事業の焼肉業態が大打撃を受けた。約300店舗の加盟店があり、そもそも販売するための牛肉が調達できない異常事態となった。そこで、急遽、焼肉業態のブランドマネージャーに指名され、その対策に当たることになった。焼肉業態にとって米国産の牛肉は味と価格の両面において抜群の適性があり、豪州産は味、国産は価格の問題で使用することが難しい状況だった。
そこで、米国産の味と価格の満足度に代わる、消費者にとっての価値を考えた時に高付加価値型食べ放題を考案した。通常の平均単価よりも高い料金設定にする代わりに、テーブルオーダー制(当時の食べ放題はセルフサービス・低価格が主流)、メニューはデザートも含めて全品注文可能、米国産の不足分は部位ごとに豪州産と国産を上手く組み合わせて提供といった形で対応した。最近では当たり前になった焼肉チェーン店の食べ放題システムの原型のような仕組みだ。これにより焼肉事業は蘇り、私も取締役に昇格することになった。
しかし、残念なことにこの復活劇の前の段階で会社の経営状態は悪化していたので、株式の転売が繰り返され株主と経営陣の関係に亀裂が生じていた。焼肉業態の収益改善は一歩遅れという状況にあり、前任の社長は解任され営業のトップだった私が社長を引き継ぐことになった。それまでの間、私は経営にはタッチしておらず、営業の最前線でひたすら業態の改善に注力していたので、社長就任の打診は青天の霹靂だった。
このころ、取締役就任を機に新たな学びにチャレンジしていた。それは京セラの創業者の稲盛和夫氏が塾長を務められていた「盛和塾」に入塾して、経営哲学を学び始めた。個人事業主だった当時から稲盛氏の著書『実学』や『生き方』を読んで、経営や人生のバイブルとしていただけに、いつかは直接謦咳に触れ学びたいと思うようになっていた。盛和塾の入塾規定に経営者またはそれに準ずる者といった縛りがあったため、「取締役」就任後、直ぐに入塾申し込みを行い参加させて頂いた。
入塾後、今もなお、私の判断基準の中心に据えているのが「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉だ。大事なことは即答するのではなく、必ずこの言葉のフィルターを通して物事を判断している。社長就任後、2年が経った頃、株主の経営方針と自分の考えが交錯したときも、この言葉を通して判断し、社長を辞任することにした。

40代:逆境から順境へ

プライム・リンク退社

2011年1月のはじめプライム・リンクの社長を辞任することを株主に申し入れた。色んなやり取りがあったものの、結論としては3月末で退任することで了承を得た。そしてあと20日ほどで退任だと思っていたところに東日本大震災が発生した。プライム・リンクの加盟店も東北・北関東に100店舗以上あったので、2人の尊い命が犠牲になった。無論多くの店舗も被災し、オーナーやそこで働く従業員さんにとっても耐え難い状況になった。そのため、株主に申し入れ退任日を3ヶ月延長して、震災の復旧対応に特任で対応させて頂くことにした。発災当初は緊急支援物資の搬送に注力し、その後は被災加盟店の従業員さんと店舗の状況確認、さらに従業員さんへの食糧の配給等に取り組んだ。同時に難を逃れた加盟店に被災加盟店への支援要請を行ったり、株主と本部支援内容の交渉等を行ったりした。また、米国の食肉協会等に呼びかけ、食肉の提供を受け、何度も焼肉丼の炊き出しを実施した。これには東京支社の社員が入れ代わり立ち代わり参加し、数千人という被災者に方々に熱々の焼肉丼をお届けすることができた。その時の皆さんの笑顔や感謝の言葉は、飲食業に携わる我々にとって、この上ない喜びとなった。
発災から3か月後には、加盟店全店舗の復旧の方向性が定まり、また集めた支援金の入金まで完了させることが出来たので、6月末をもってプライム・リンクの社長を退任した。

ハークスレイ入社

2011年7月1日、ほっかほっか亭の全国フランチャイズチェーン本部を運営する㈱ハークスレイ入社した。当時は東証一部上場で、グループ会社には店舗流通ネット株式会社やアサヒ物流といった企業があった。入社前夜に開催して頂いたプライム・リンクの送別会ではアルコールを飲まずに過ごした。翌日に、この入社式があったからだ。
本来、ハークスレイへの入社は4月の中頃を予定していたものの、震災対応が急遽必要となり、一旦は入社辞退を申し入れた。しかし、プライム・リンクでの復旧対応が終わるまで、入社を延期しても構わないといったご配慮を頂き、入社日が延期された。そこで、休みを1日も挟むことなく出社することになった。
ハークスレイ入社後は、経営戦略室長、マーケティング本部長(商品部・販売促進部)、営業統括本部長を歴任し6年目には副社長、8年目には代表取締役社長に就任し、経営全般に携わらせて頂いた。また、グループ企業の店舗流通ネットやアサヒ物流(現アサヒL&C)の社外取締役も担当した。
ハークスレイには結局、11年間お世話になった。仕事や組織にも慣れてきた5年目に入ったころに加盟店経営者の育成に本格的に取り組みたいと思うようになった。そこで、中小企業診断士の資格にチャレンジして1次試験に合格し、その後、兵庫県立大学大学院の経営管理修士課程に進学して中小企業診断士の資格を取得した。この学びを加盟店経営者向けの勉強会で活用することができた。
在学中は、年52週間の内、50週の週末の土日が全て大学院の授業や実習に充てられたため、ほとんど休む間もなかったが、とても有意義な時間を過ごすことが出来た。当時は、この学びが病後の仕事を決定づけることになるとは思いもしなかった。

難病を患い退職を決意

ハークスレイでの仕事は概ね順調だったものの、2021年の1月に突然転機を迎えた。1月4日のもやもや病の発症である。詳しくはもやもや病闘病ブログをご覧下さい。これを機に退任を決意した。年齢が50代に突入し、将来の仕事について考えるようになっていたので、絶妙なタイミングで病気を発症したようにも思えた。

50代:仕事の集大成を模索

もやもや病の手術を終えて無事退院したのが、2021年3月1日だった。その後、2ヶ月ほどは温泉で療養したり、東北・北関東を周遊するツーリング旅に出かけたりしてリフレッシュした。能勢の家に戻り、今後のことを考え始めたのはゴールデンウィークに入ったころからだ。体調を崩したことから、正社員としてフルで働くよりは、もう少し自由度をもたせて何か仕事ができないか模索が始まった。
地域の活性化、人口減少対策、空き家問題の解決といった社会問題に対して何らかの貢献ができないかと考えるようになり、大阪維新の会が主催するタウンミーティングに参加したり、地元の不動産屋さんのお手伝いをしたり、空き家のマッチングサイトの研修を受けてみたりした。どれも興味深いものだったが、それが仕事として成り立つようには思えなかった。あくまでもボランティアの延長線的な色合いが強く、やるにしても、別に仕事を探す必要を感じた。
この間、1年ほど収入がほとんどない状態で、貯金を切り崩して生活していたが、残高が減っていくという問題よりも、働いて得たお金で美味しいものを食べたり、旅行に行ったりしないと楽しく思えないということに気づいた。ひとは社会的な存在であり、ひとりでは生きられないといったことを本で読んだことがあるが、まさにその通りで、社会に貢献してこそ、自分の存在意義が実感できるのであり、ただ漫然と生きているだけでは、本当につまらない。
ということで、本格的に仕事探しを始めたのが2021年の暮れになった頃だった。運よく、中小企業診断士協会から独立行政法人中小企業基盤整備機構の支援アドバイザー募集の告知を見かけた。すぐに応募すると当時の課長が面談してくれて採用が決まった。この段階では、自分の経歴にマッチする中小企業の支援案件があった場合に業務委託を締結し、対応するという不定期扱いだった。
ところが、課長から別の案件があるから、もう一度面談したいと連絡があり、行ってみると月12日ほど勤務する管理アドバイザーの業務をしないかと打診された。思いも寄らない打診だったが、興味があったので、引き受けることにした。これが現在の仕事の幹となっていて、この他に以前関係のあった企業で顧問的に、中堅社員の育成や中期経営計画づくりのサポートをしたり、別の中小企業支援機関のアドバイザー業務を受託したりするようになった。人生の集大成を飾る仕事というには、もう一段踏み込んでいく必要があるが、ひとまず前進は始めたと考えている。

 

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